岡田です。

2025.09.20

僕は醜い人間だなとふと思う。どんなに冷静に努めようとも、清潔であろうとしても僕自身の奥深くにある「根」は醜く汚いものだと思う。ああ、書いていて泣きそうになる。でもだからこそ、綺麗だと思うものにひどく憧れてしまう自分がいる。
決してそうなれないと分かってはいても、読んだり観たりしている間は僕が醜い人間だということを忘れることができる。だから僕は映画や本が好きなのだと思う。

美しく綺麗なものと醜く汚いものの違いはなんなのだろう?
なぜ僕は自分のことを醜い人間だと思うようになったのだろうか。
それぞれの言葉の意味を調べると、美しいとは「目・耳・心にうっとりさせる感じで訴えてくるもの」で、綺麗とは「清潔、よごれ、余計なものがない様子」らしい。
反対に醜いとは「見ていて不快な感じがする、嫌な気持ちがする、見苦しいもの」
汚いとは「触れるのもいやなほど汚れた状態」のことらしい。
余計なものがない。ということが綺麗なのであれば、余計なものばかりがひっついて離れない人間達に綺麗な人なんていない。
むしろ、僕が思う綺麗な本や映画を生み出す人達は、誰よりも醜く汚いものを知っているからこそ、それらを削ぎ落とし、余計なものを取り除いて清潔でうっとりするものを生み出せるのではないだろうか。

『落下する夕方』を読んだ。
江國香織は大学の頃によく読んでいたのだけど、そういえばこれ読んでないなと思い立ち購入。相変わらず僕は彼女の書く言葉に惚れてしまう。
梨果と健吾は付き合って8年にもなるのだが、突然健吾は梨果に別れを告げて家を出ていく。理由は他に好きな人が出来たから。
突然の別れに悲しみも苦しみも感じることができずにただ健吾がいない生活を送っている梨果だったが、ある日突然健吾が想いを寄せている女性、華子と同棲することになってしまう。
梨果と健吾と華子、3人の、愛することも憎むことも出来ない奇妙な三角関係のなか送られる生活の日々。
華子はとても綺麗な女性として描かれていて、美しく、余計なものがない。彼女の発する言葉には何も含まれず、適切な重さでその言葉通りの意味しか持たない。
そんな華子に健吾も、最初は忌避していた梨果も惹かれていく。
華子は仕事をしていない。一日中家で眠るかラジオを聞いて漫画を読むかしていて、たまに出かけたかと思えばそこから3日いなくなったりする。
不思議な魅力を持つ華子だけど、どこか人ではないような雰囲気を感じる。まるで剥製のような温度のなさ。美しいものしか持たない華子はまるで死人のように見える。
反対に、梨果はとても人間的というか、普通の女性という感じがする。
健吾への想いを引きづり、嫉妬したり、悲しんだり、ちゃんと社会にいる気がする。
奇妙だけど、穏やかな梨果と華子の生活は突如終わりを迎える。
華子が自殺した。誰にも告げず、突然。なぜ華子は死を選んだのだろう?
華子は、醜悪な社会に嫌気がさしたのだろうか。それとも、自分が最も美しくある状態のまま生を終わらせたのだろうか。
理由は結局のところ誰にもわかりはしない。ただ華子が死んだという事実だけが残った。

美しい死と、醜い生。
華子は醜く生きるより、美しく死ぬことを選んだのだと僕は思う。
生きるということは、どうしようもない屈辱に耐え続けることだ。与えられた場所や状況は大抵不本意なものばかりで、生きるという根底にはこの屈辱感が常にあり続ける。
でも、生きている限りそれは仕方のないことで、その屈辱を僕らは受け入れるしかないのだ。死を選ぶことを否定はしないけれど、僕はそれでも、屈辱感にまみれ恥をかきながらも、死んでしまうその日まで生きるしかないのだと思う。
どうせ死ぬなら、生きるしかないのだ。