岡田です。

2025.09.05

ユーロスペースで。

1980年代の日本を舞台に、11歳のフキが経験するひと夏の出会いと別れ、そしてフキのまなざしを通して人の醜さや弱さを描く。

少女のまなざしで映される大人たちの滑稽さとかは凄く相米慎二の『お引越し』を思い出した。ただ、『お引越し』よりも『ルノワール』は「世界」というものに目を向けているような気がする。

この映画は「死」で溢れている。親の死、事故死、他殺、、、世界はこんなに「死」でいっぱいなんだ。それはたぶん、80年代の雰囲気みたいなのもあるのかもしれない。

フキはずっとその「死」を見つめている。現実の自分の親の死よりも、もっと大きなものの「死」を感じ取っている。大人たちは現実にある、傍から見ればちっぽけなものに疲弊して、疲れている。この映画に出てくる大人たちはみんな苦行のように人生を生きている。誰が決めたか分からない社会の規範というものに必死に収まろうともがいているようにも見えて、少し僕も辛くなる。苦しみに耐えられない大人たちが弱いのか、それとも社会というものが冷徹で無常なだけなんだろうか?

フキはそんな大人を苦しめる社会よりも、はるか昔から絶対的に存在する「死」を見続ける。社会を何も知らないからこそ、社会に飲まれてしまった大人たちが見ることが出来ないものをフキは見ることが出来たのかもしれない。でも、そんなフキも次第に社会に飲み込まれていく。

死にゆく父親の看病や仕事で忙しい母親は家を空けがちで、フキは家で一人でいる事の方が多い。フキは親に隠れて偶然手にした「伝言ダイヤル」という今の時代で言うマッチングアプリのようなもので暇をつぶす。

80年代のネットはまだ現実と乖離していて、ある意味現実とは別次元の世界のようなものだったのかもしれない。社会のように規範や秩序はなく、かと言って自然のように弱肉強食でもない。あるのは人間の欲望だけで、毎日毎日大人たちが人恋しさに伝言を残していく。

フキはそこで、性犯罪という社会で最も醜悪なものに触れそうになってしまう。ここは本当に吐き気がしたし、まだ何も知らない子供が大人たちの汚い欲望のために利用されるなんて絶対にあってはならない。現実では本当に巻き込まれてしまった子供もいるのだから、胸がズキズキと痛んだ。

フキはまだこれから自分がされることの恐怖を知らない。結果的に何もされずに終わったのだけど、知らないからこそフキは心も体も傷をつけられずにすんだ。傷ついたのは僕ら観客の心だけ。

知らない土地から家まで歩いて帰るフキ。歩いて帰るには遠い距離なのか、辺りはすっかり夜になる。途中、川で灯篭流し?をしているところを見かけるフキ。橋の上からその様子を見ているフキの顔を照らす外灯や車の光。夜の風景と合わさってとても美しいシーン。フキは世界には美しいものも確かに存在すると知ったのだ。

夜の川に浮かぶ灯篭の火。競馬場を走る馬。父の病室に飾られたルノワールのイレーヌの肖像。

美しいものとはいったい何なのだろうか?何を僕らは美しいと感じるのだろうか?でも確かにあの時フキは美しいものを見たのだろうと思う。

世界は、どうしようもなく残酷で美しく、人は脆く弱い。その事を言葉ではなく画の力で伝えようとしたこの映画は素晴らしいんじゃないでしょうか。

こういう映画を新作で観れるのは幸せだ。